I am happy to know that many readers have read the blog (in English, Czech, French, and Japanese) on Ogura Noboru sensei. So, I told Ogura sensei about that and asked him to write a new article. Within a week or so, he replied and enclosed four articles which he contributed to a local newspaper.
PNGの記事は、小倉昇(居合道範士)先生が下野(しもつけ)新聞に寄稿したコラムです。一度クリックした後、再度クリックすると拡大します。
この記事を掲載するにあたり、先生にお電話して許可をいただいた。どんなに世をはかなんで落ち込んでいる人も、この声を聞けば頭がしゃっきりするだろうと思う、そんな心地よい健やかな声で話される。腹からでているので、大きくとおりやすい。
先生によると、これらの記事は評判がよく、特に年配の人たちからたくさん電話をもらったという。先生は記事の話から、最近の柔道界の問題、マナーや道徳違反にもふれられた。「試合に勝った後で、ガッツポーズをしたり」とおしゃったので、「ガッツポーズは、しちゃいけないんですか?」と尋ねた。(私は、たぶん「あろうことか・・・」という質問ばっかりしているのかもしれない。失礼しました)。試合で戦ってくれた相手を敬い、負けた人の悔しい気持ちを思いやり礼をするという、そのような礼節を忘れてはいけないとのこと。(なるほど)
友人のジェシーが彼の師である小倉先生から手紙を受け取るたび、ベルギーからフランスの私にファックスやエアメールで転送し、内容を訳してジェシーに伝えている。
どういう経緯か忘れたが、2・3年前初めて小倉先生より私宛に手紙をいただいたことがあった。夕方、郵便物をいくつか手に持ち、注文したピザを受け取りに行った。ピザが釜の中で焼きあがるのを待ちながら、添えつけのベンチで小倉先生からの手紙を開いた。エアメールから、婉然とした和紙の手紙が出てきた。それをピザ屋のオーナーが見ていたらしく「まあ、きーれい。たくさん書くことがあるのねえ」と感嘆の声をあげた。優れたものは、異文化からの宥和というか親和力を引き出すのを私はよく知っている。巻物のように長い上質の和紙をふわふわと手のひらで広げ、私は誇らしげだったにちがいない。先生の美しい筆跡や、意匠をこらした書簡のやり取りをする日本文化のきわだった良さに感じ入った。
小倉先生に関するブログは読者の関心も高いらしくアクセスが多いので、新しい記事を書いてくださいとお願いしたところ、早速、打てば響くように返信をいただいた。先生の男気というか、きっぷの良さを感じた。先生はとっても楽天的でもいらっしゃる。自信が楽天性を産むのだろう。
武道をするような人たちは、女性でも男性でも身でもって日本を守りたいと思っているんだなあと、そういうやさしみを手紙から感じた。
Nanami Shiono is a Japanese writer who lives in Italy and has written on the history of the Roman Empire. Referring to the declines of nation states, she mentions: "The fish rots from the head down." ("Piscis primum a capite foetet" in Latin) I find it quite suggestive for reflecting on our country, Japan.
作家の塩野七生さんが次のように書いている。
「歴史を一見しただけでも、本格的な改革とは意外にも、二世・三世によって成されている。ただし、傍流の二世・三世によって、ではあるけれど。
それで私などは、下部構造が上部構造を決定する、などとは絶対に思わなくなった。それどころか、誰が言ったのかは忘れたが、魚は頭から腐る、のほうに賛成だ。歴史上の国家や民族の衰亡も、指導層が腐った結果で、一般の庶民はその後もしばらくならば健全を保つ。ただし、頭が腐るとそれは内臓に及び、身もいずれは腐るのだが」(「日本人へ。国家と歴史篇」文春新書、2010年、162頁)。
彼女のローマ帝国史は読んでいない。だがローマ帝国の衰退を促したとされる、キリスト教(キリスト)のシンボルが魚である。なるほど、いろんな意味で示唆的なところがありますね。
友人や知人の中には日本のエリートそのもののという人たちもいて、とても優秀な人たちだと信頼しているので、一般論で「エリート」の悪口は言いたくない。一方、「なんじゃい、こいつら」と驚倒しそうになったエリート官僚と何度か会う機会もあった。ここでいちいち、あげつらうことはしない。だが・・・。

I have just published an article entitled "Amartya Sen's Capability Approach, Democratic Governance and Japan's Fukushima Disaster - アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチ、民主政と福島の大惨事" in The Asia-Pacific Journal, Vol 9, Issue 46 No 2, November 14, 2011.
For those who are interested in reading the article, please go to:
http://www.japanfocus.org/-Sachie-MIZOHATA/3648
To print the article:
http://www.japanfocus.org/-Sachie-MIZOHATA/3648?rand=1321820495&type=print&print=1
Rei Shiva's photo shows the deserted town of Futaba, inside the 20-kilometer evacuation zone in Fukushima prefecture. The irony is that the crossroad sign saying “With correct understanding of nuclear, (we have) a yutakana (rich or affluent) living.” Another photographer, Ota Yasusuke shows in his blog the photos of the companion animals unintentionally abandoned after 3.11:
http://ameblo.jp/uchino-toramaru/entry-11009698930.html
I have been writing a paper entitled "Amartya Sen's Capability Approach, Democratic Governance and Japan's Fukushima Disaster." So, I think of Hiroshima, Nagasaki, and Fukushima everyday: three man-made disasters. Here are notes from (about) three people on Hiroshima/Fukushima.
John Rawls (whose work has heavily influenced the philosophy of the capability approach):
50 Years After Hiroshima.
"The fiftieth year since the bombing of Hiroshima is a time to reflect about what one should think of it. Is it really a great wrong, as many now think, and many also thought then, or is it perhaps justified after all? I believe that both the fire-bombing of Japanese cities beginning in the spring of 1945 and the later atomic bombing of Hiroshima on August 6 were very great wrongs, and rightly seen as such. In order to support this opinion, I set out what I think to be the principles governing the conduct of war—jus in bello—of democratic peoples. These peoples' have different ends of war than nondemocratic, especially totalitarian, states, such as Germany and Japan, which sought the domination and exploitation of subjected peoples, and in Germany's case, their enslavement if not extermination" (Dissent Magazine, Summer 1995).
ケイパビリティ・アプローチの定義
ここであらためて、ケイパビリティ・アプローチを定義しておきましょう。このアプローチは個人のwell-beingやケイパビリティなどを見ながら、人々の暮らし向きや社会のありさまを評価分析するための理論です。また社会のしくみの弊害をさぐりあて、不平等や不正義などを批判するのに有効な規範倫理としても活用されています。さらに、国民の幸福度を高めることを目的とした政策立案を導出する、理論的枠組みとしても使われる多目的なアプローチです(Alkire, 2005; Robeyns, 2005; Alkire, 2008, p.30; Comim, 2008)。
補足しますと、このアプローチにもとづいて特定の現象を分析するとき、たとえば貧困や不平等や幸福など(の要素)をおおむねこういうものだと説明することもありますが。このアプローチは、どちらかというとそういった事象を筋道を立てて説明する理論というよりは、貧困や生活の質など個々の現象の本質的な特徴や共通点をとらえ(概念化し)、説明できるように手引きする規範理論です(Robeyns, 2005)。貧しい国だけでなく、経済的に豊かな国の分析にも用いられます。この理論の思想的な源泉は、アリストテレス、アダム・スミス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、ジョン・スチュアート・ミル、ジョン・ヒックスだとされています(Sen, 2005; Nussbaum, 2006)。
今朝もいつものように、「小出裕章(京大助教)非公式まとめ」のサイトをチェックしていました。私たちのように海外に住む在外日本人にとって、原発情報を得る有用なサイトです。コメント欄で、アメリカに住む日本女性(edokko311というペンネーム)が、小出裕章先生の発信情報のFacebookを作成しようと考えているとのメッセージがありました。深夜まで、彼女が自分に何ができるかと、考えた様子がうかがえました。
それで、私も次のような書き込みをしました。フランス時間、今朝9時ごろです。
edokko311さん。みなさんへ。
1)edokko311さん。「なんとかしたい」という切実な気持ちは、私も同じです。私の周りにはコンピューター技師たちが大勢いるのですが、エキスパートによるとFacebookは個人のプライベート部分を公にし、個人・団体の考えや意見を広めるのには向かないと言っています。Facebookに書き入れたことは、おそらく小出先生に属するのでなく、すべてのコントロールはFacebookにいくと思います。ですから、まずはLicenseをよく読んでみてください。
2)このサイトのコメント欄が、フォーラムのように討論の場になっているのは素敵なことだと思います。
私たちも多国語のサイトを、運営しています。このサイトをバックアップする形で、小出裕章先生以外の原発関連の情報や復興支援のアイディアなどを掲載するのに活用してください。
http://social-issues.org/community/
3)私は日本、アメリカ、フランスと原発三大国(そんなこととは知らず)に住んできました。昨日のYOMIURI ONLINEには、今月26、27日にフランス、ドービルで開かれる主要8か国(G8)首脳会議で菅首相は原発、安全性高め継続を表明するとありました。「G8の中で原発推進の立場の米、仏両国と連携し、過度な“脱原発”の流れとは一線を画す立場を鮮明に打ち出す考えだ」そうです。
反原発の世論を反映していない、こんな発言に唖然としています。推進派の米国・フランスにつかず、その残りの国と脱原発に転向してそのリーダーになるくらいの日本であってほしいのに。