オバタリアンたちのエージェンシー(agency)

もう死語になったのだと思っていたら、このあいだ強烈なタイプに遭遇した。ああいった人を「オバタリアン」と呼ぶのだろう。思えば世界中どこにもいらっしゃるが、なぜか日本でよく会う。オバタリアンを育てるような風土が日本にあるとしたら、それは何なのだろう。

仕事に就き収入を得て、実力や自信、自由を身につけるよりも、オバタリアン予備軍は家庭や現状の安住を選ぶからか。母や妻になることで、はじめて「力」や「自由」「エージェンシー」を得る日本女性は多いのだろうか・・・。母や姑として磐石の地位を築いたオバタリアンはもう恐いもの知らず、その傍若無人さはとどまるところを知らない。

もちろん中年になったり母になった女性がみな、オバタリアン化するわけではない。「オバタリアン」は女性だけとも限らない。男性にも「何を思ってそんなにエラソーにできるんですか」と聞いてみたくなる「オジタリアン」もいらっしゃる。でも男性の場合、「逆玉のこし」の上昇婚をしたり、マフィアの「ゴッド・ファーザー」のような例を除いては、結婚して家庭を持つことが権益や安定を得る手段にはあまりならない。

ババシャツで着膨れたりあつかましいのは「オバサン」であって、「オバタリアン」ではない。ではオバタリアン度を決定するその特性は何か。ビターネスにあると、私は見る。

オバタリアンの仕合わせな強みは、その独特の弱さと偏狭さである。不運につぶされたオバタリアンは、幸せそうな他人が疎ましい。不要な摩擦をわざわざ引き起こすフクザツな苦労性。それに、不思議な価値観。「人生経験が浅いあんたを見てるとイライラするわあ——」といった優越感がオバタリアンの声を大きくする。「私は正しい」とする独断偏見の道徳観が彼女の自信をさらに拡大補強。オバタリアンは一歩、家を出れば、まして日本を出れば、その「正義」や「常識」は通用しないなんてことは心配しない。他者の人生の深奥などに、てんで興味はない。

オバタリアンはコテコテの権威主義者だから、上の人に媚び、下の人にはえらそうだ。弱者と見たら(オバタリアンの基準による)、オバタリアンは容赦なくイタブル。アンチ・オバタリアンはオバタリアンの嫌味や不意打ちにひるんだり、その不敵な過信にあんぐりしたり、その天性の狡猾さに感嘆したりさえする。あるいは「オバタリアンをからかえば、隣で大人しくしている彼女の夫がかわいそうかな」「ひゃーまた何をおっしゃる」とか「いったい、この男性はオバタリアン妻のどこがいいのか。ホントにまだ惚れてんの」とあれこれ考察するうちに「ほーら、みなさい。私の言ってることが正しいから誰も言い返せないでしょ」と自己肯定するオバタリアン。

日本版オバタリアンはなわばりが限られた安全地帯に生息するのか、制裁を受けることもなく日々、野放図に生き延びてゆく。

運命の不思議な転変。人生、思いがけないことがたびたび起きるけど、辛い経験でビターになる人と、メロー(円熟)になる人の差はどこからくるのだろう。幸運を味方につけ人生思いのまま、楽天的に夢を実現していく女性たちや、立ち直る弾力性のある人はオバタリアンになりにくいのかもしれないなあ。

 

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