格差と障害者

「えー、おっしゃってること、おかしいですよ」
2006年、5月24日。新経団連会長に就任した御手洗富士夫(みたらい ふじお)キャノン会長が、格差拡大をどう考えるかというインタビューに次のように答えた。

「市場経済は競争原理に基づいているため、差が生まれるのは必然だ。すべての人に平等なチャンスが与えられ、競争が公正に行われ、失敗した人が再チャレンジできるという前提があれば、努力した結果生まれる格差はむしろ賞賛されるべきだ。これが(経済成長の)モチベーションになる」

インタビューの全内容ではなく、上の抜粋された部分だけをYahoo Japanで読んだので誤解があるかもしれませんが、この部分を読む限りではこの発言はどうも変じゃないでしょうか。

そういえば、小泉前首相も安倍前首相も似たようなことを、おっしゃってらした。福田首相は何とおっしゃたのか、知りませんけども。日本のリーダーたちは「格差のどこが悪いねん」とか「格差があってもショーガないやんか」みたいに開き直ったり、はては格差を肯定していた。これって、おかしいやんか。

彼らが言うのは、「張りボテの成果主義。企業全体の利益が上がるような競争がいっちゃん大事」「勝気で人一倍の努力家。しかも勝負強くないと、あかん」「本人の意志と能力があるかぎり、努力すればなんでもできる」「自己責任で国際競争を勝ち抜いていくんやで」という努力至上主義なんでしょうけど。露骨に言えば弱肉強食。「他人を踏みつけ踏みにじり、どんなことをしてでも上にはい登るヤツらが一番エライ」とゆーてるんでしょう。こーゆんは、ウツクシクないわ。こういう人たちのことを日本語では「負けず嫌い」とか「人でなし」とも言いますが。そんな成果重視の階級社会がいいのでしょうか。

日本のエリートたちの発言はリベラルで公平性を強調したような論調で、正論めいていますが、実はこれほど平等性に欠ける主張もありません。

彼らが強調する公平な競争というのは。たとえば「障害」があるパラリンピックの選手も、「障害」のないオリンピックの選手も、何のトレーニングもしていない一般人も、「よーい、ドン」で一緒に競争するのが「公平」だといっているのと似てませんか。彼らの「平等」や「競争」の定義には、障害者や病人、高齢者など、社会的弱者のことは考慮されてません。

経済学者のアマルティア・センが繰り返し個人差を強調していますが、人それぞれ生まれる場所も環境も、全く違います。世界を見渡せば、それこそ肌の色も話す言葉も、親の職業も階層も違う。一人一人の特性や才能もまちまち、身体的社会的な格差もあり、いわばある種の「負」や「優位」を背負って生まれてくるわけですから、スタートラインの平等というものは、まずありえない。いくら「競争が公正」でも「努力しても」、到達過程や到達点までの時間差は無くなりません。「人それぞれ」な訳ですから。

「すべての人に平等なチャンスが与えられ」るようにするには、「負」の弱者の人たちをまず優先して、大きなチャンスや資源を与えるべきですけど、それは日本ではできているでしょうか。この不平等のまだその上に市場経済や競争原理をもち出して、格差や不平等を正当化するのも、よろしくない。

一般の「健常」な人たちなら、普段あまり考えもしないことですが。目の見えない子供は鳥がどんな風に羽をひろげ、はばたくかなんてことは「学習」しないとわからない。健常な子供なら、なにげなくする体育の屈伸運動や、社会の時間に習う仏像の頭の形なんかも、全盲の人にはかなりの努力や時間や資源(お金、特殊学校、特殊器材など)が必要になってきます。

(詳しくは、福祉工学の渡辺氏らの研究を参照されたい)

http://www.nise.go.jp/research/kogaku/twatanab/IndexJp.html

こういった不利な条件にいる人たちも、対等な社会の成員であることを無視して効率性を優先すれば、格差が拡がるばかりです。

日本のリーダーたちが言う格差や不平等というのは、自由経済の競争の「自然」な結果だと強調されていますが。市場原理に従い「弱者」「生産的でない」人たちや、過疎の村を切り捨てていけば、どんな日本社会になるでしょう。(格差社会や、格差と社会保障制度について、もっと詳しく専門的には橘木俊詔やレオナルド・ショッパーなどの著書を読まれるといいかと思います)私が注目したいのは、税金の再分配や政府予算の移動によって格差を是正するよりも、経済成長や効率性などを重視する政策を選んだ ・・・ つまり、格差は日本の政策選択によって拡がった点を強調したいと思います。経済活動に不確実な要因が多いとはいえ、格差は予測やコントロールが不可能な自然災害ではなく、社会的な状況です。ですから市場原理に頼って格差などの社会問題を「自然に」解決することは、まず無理なことでもあります。

障害について最近は米国・シカゴ大学のマーサ・ヌスバムも論述していますので、詳しくはMartha C. Nussbaum. Frontiers of Justice, 2006を参照していただきたいのですが。普段生活する上で、フツーの健常者は、たとえば眼鏡をつけたり車を運転したりと、補助具を使って暮らしていますが、少数派である障害者向けの補綴(ほてつ・・義歯、義眼、義手、義足など)や補助具はまだ未発達で極端に不足しています。ヌスバムは社会の設計図をガラリと変えると、障害者も健常者と同じように「生産性」の高い社会参加活動ができ、正規の長期就労にもつけると、提案しています。

彼女は、アマルティア・センの有名な車椅子の論説も引用しています。「車椅子の人が公共の場で『フツーの人』と同じように動き回れないのは純然として、社会のせいであって(社会的な障壁のためで)、身体的な障害のためではない。車椅子用のアクセスが整備されてないからだ」と論じています。社会がうまく工夫設計しきれてない上に、法律や政策、慣習や差別などで「障害者」と「健常者」との区別を維持させているからだ、ということですね。

しかも「健常者」であっても、事故や病気や加齢でいつなんどき「障害者」になるかもしれないのに。

ヌスバムの説を言い換えれば、「健常者と障害者」「働きざかりと高齢者」「私たちと彼ら」と対比して考えるのはナイーブで、むしろ連続的な継続性、延長上として見なすべきだと解釈できるでしょう。ですから、いのちや「機能」に限りのあるわれわれ人間の不測の事態を考え、安全策を開拓していくのが社会をリードしていく人たちの任務でもあるはずです。社会はバリバリ競争できる働き盛りの人たちや、世代だけのものでもないわけですから。

だから「格差はショーがない。公平や平等性を犠牲にしてもでも、経済成長、景気の建て直しが大事」という主張は、「自分たちが儲かりさえすればいいんや」に聞こえますねえ。

「発展」や「豊かさ」という概念を分析する時にお金をものさしにすると、「発展」は「経済成長」「効率性」や「ビリオネアーが多い」等といえるでしょう。ですが、「発展」のものさしをお金以外の、たとえば「社会保障」や「生活の質」の充実に置き換えたらどうでしょう。また、人それぞれ違うということを尊重し他者を尊敬できる「寛容さ」、「困っている人を助けること」を社会の「進歩」と見たらどうでしょう。さらに「豊かな社会」とは、「・・・しか、ない」じゃなくて、「・・・しても、いいし」でなければ「・・・もできる」という選択肢が増えることとしたなら。「発展」や「進歩」も、何が大事かという分析用具で、その答えも変わってきます。

たとえば、「不利」で「つらい」立場や状況が固定したままでなく、「努力」や「労苦」がいつか「報われる」「大逆転あり」という「公正さ」や「希望」「保証」「支援」が感じられる社会ほど「豊か」だとすると。階級社会や格差固定は「発展」の対義語になるんじゃ、ないでしょうか。

追記

「障害のある人」が短直に対等でないと考えて、「健常者」と違い自分たちの方がもっと権利があるという考えにも、賛成はできないです。「障害者」も「健常者」もまずは平等。公平を出発点にして、対等な人間関係、社会を模索するのがやはりフェアだと思います。

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