Reply to comment

アマルティア・セン 「障害と正義」世界銀行における基調講演 (和訳掲載)

アマルティア・セン教授が、障害者について話した講演録がある。それを日本語に訳する許可をいただいた。この講演は2004年とやや古いものであるが、彼が明らかにした問題も解決法も時をへて今なお新しい。

「正義論」というと、きれいごと、青臭い話、独善、あるいは気おくれなどのイメージを持つ人がいるかもしれない。嘘、変節、詭弁、論点ずらし、番狂わせ、詐術・・・・と空論のテクニックでやりこめるような論客がもてはやされる昨今の日本では、正義について語ること自体、空洞化してしまっている感は否めない。

そんなしらけ感を持つ人は、ぜひセンの著物を手にとってほしい。その正義というわかりにくいテーマをわかりやすい言葉で争点化し、彼が縷々と語るほてりを感じてほしい。そして論議をかさねた正義の哲学が、私たちの日常生活につながる政策や法律のもとになることを忘れずにいてほしい。

一般的に「正義」は理非曲直をいうが、アマルティア・センの正義論では分配の公平さや平等に関して論じられることが多い。正義という概念は、国のあり方にも行方にも大いに関係する。

日本では、年頭から「成長」という言葉が紙面をにぎわしているようだが (私は欧州に在住)。国がゆたかかどうかを経済効率性だけで判断するのは浅慮だ、とセンはいう。だからこそ彼は、人を基本にして考えたケイパビリティ・アプローチを提唱する。

たとえば、ある人が野宿をする。定住するお金はあるけども、そういう冒険生活が好きでやるのが(できるのが)「ケイパビリティ」のある人である。その人のケイパビリティは、嫌になれば野宿生活をやめ、職や定住地を確保する自由度があることで成り立つ。やむえず真冬でもネットカフェ難民やホームレスとして路上生活を続けざるを得ない人は、「ケイパビリティが欠如」しているのである。

このアプローチは、障害にも適用される。自転車は移動するための道具であるが、どんな(キャノンデールのような高価な)自転車を持っていたとしても(それを大いに気に入り満足していたとしても)、その所有者が重度の障害者であれば、移動という目的を果たすことはできない。障害者は所得という手段確保のほかに、それを望ましい人生に具現するだけでも二重・三重のハンディを背負うことになる。

したがって、人が自由にゆたかに幸せに生きているか否かを判断するには、その単なる手段である所得や所得、生活の満足度、基本財だけを見ても分からないと、セン教授は論じている。

主体的選択としてのケイパビリティは、個々のエージェンシーとも深くつながっている。たくさん/いくつかある選択肢から比較し、自分にとって最も/かなり良いものを探すという最適択のような暮らし方を選べることを、ケイパビリティがあるといえる。このアプローチでは、生きるうえで「自由に選択できない不自由さ」を「貧困」という。自分が望む暮らしや目的が達成できないという意味で、貧しいのである。むろん、他者に害をおよぼすことを、「ケイパビリティ」や自由とはみなさない。日本は、ゆたかだろうか?

センが講演の最後に引用するアルフレッド・テニスンの詩に表されているように、正義など真善美を示す哲学は、それを探求し提唱する人たちによって(あるいは「正義」を作為し売りとばそうとする人たちによって)往々にしてゆがめられる。だからこそ善の本質を冷静にみつめ心にとめ、信じささえ続けなければならない。ことに善はゆらぎ、とことん試される目にあうであろうから。そういう意味のこもった詩をひいて、センは講演を結んでいる。

総じてセンの著物は読みやすい。簡潔なことばで、彼が明晰に考えることが記されている。清澄なおだやかさが伏流していて、「正義」や「障害」というテーマを得て、水際だった誠実さが内から輝きだす。

もし人工的で稚拙な感じがして読みづらいとしたら、それは原綴の英語と日本語の文法構造の違いによるところもあるし、私の拙訳のせいでもある。改良点があれば、ぜひご教示いただきたい。

障害者や生活保護受給者をバッシングする論客や、人が幸福に生きる自由を「自分勝手」や「わがまま」に置きかえたりする手法や、自己責任論のネオリベ派の浅慮を、やんわり笑い飛ばすほどに、日本でケイパビリティ・アプローチの理解が進むことを願っている。この解説文のほかに、文中の[]内、図、写真は、私の補足である。


 

世界銀行 2004 ― アマルティア・セン教授の基調講演

 

「障害と正義」

障害と包摂をめぐるきわめて重要性のあるテーマの会議に参加することを、この上なく名誉なことだと思っております。ジェームズ・ウォルフェンソン(James Wolfensohn)の優しいことばにも、大いに感謝いたしております。ジムほど私が賞嘆を覚える人は、世界にあまりいないのも同然で、本会議で彼と論じあうのも素晴らしいことです。そして私からも「バースデーボーイ」に、心からのお祝いを申し上げたいと思います。

身体あるいは精神障害を持つ人々は、世界で最も恵まれないだけでなく、はなはだ度々軽んじられている人たちでもあります。今日は実用に徹した問題に関する会議で、非常に差し迫った、そして障害者に対する誤りをただす方策や手段について考える集まりなのですが。私は主に理論について、とりわけ正義論における障害者への取りくみについて、焦点をしぼりたいと思います。大切なのは、障害への取りくみと障害者への正義の要求を理解することが、なぜ一般倫理、特に正義論の核心にあるべきかを認識することです。またなぜこのように大事な問題を、正義論の主要学派は軽んじる傾向にあるのかを知るのも、有用であると思います。そして、この傾向がために実践的な政策が無対策になり、障害者に対する社会的義務という責任ある見方をとりえないという過失が起こり、そうした不十分感を抑えることにさえ貢献しているのです。よって、この講演の一部は(犯人捜しの)なぞ解き、哲学的な推理探偵の形をとっていきます。

ある意味、障害者の苦境とそれに向き合う必要性ほど、明らかなことはありません。2500年前、若き日のゴータマ、後のブッダが悟りをもとめヒマラヤ山脈のふもとにある王宮を抜けでた時、彼はとりわけ死(死体が火葬場に運ばれ)、病(病気にひどく苦しんでいる人を見て)、障害(老いて身体が不自由になる)を目の当たりにし、心を乱します。人間が生きる上での窮乏と逆境に対するゴータマ・ブッダの懸念は、時代を超え思いやりのある人類のイメージを想い描くのに役立ち、今日も私たちの胸に訴えかけてきます。

熟考と善処を求める障害を案ずるとき、ただちに強く心に迫るものがあります。そこから生じる審議は、もっともなことですが、アクションを要請し督促する強制力を期待できます。様々な状況下にある人々に対して公平であることは、正義というテーマの中心にあり、正当な理論であるならば、その公平性はどうすれば達成されるのかを、われわれに提示しなければなりません。正義論たりうる論考はこの問題に向き合うべきであり、また著しい障害をもった人々に対し、社会が負うものを特定しなければならないと論じるのは難しいことではありません。むろん、どうすれば障害者の苦境は克服あるいは改善されるのか、そしてこの重大な課題に取りくむには、どのような制度、規則、慣習がふさわしいしいのかという議論もできるかと思いますが。障害者の窮状を見すごしたり軽んじるのは、正義論たるものが選ぶ道ではありません。

がまさしくこれこそが往々にして、正義論が何世紀にもわたり踏襲してきたことであり、そのため望ましい社会の本質を現実的にわきまえ、社会秩序と公平性を求めていく流れにも深く影響をおよぼしてきました。これがどのように起こり、障害者の要求はかわすという貧しい見識が、政治哲学や厚生経済学の中心的位置にはびこるようになったかを考えなければなりません。

社会理論でとりわけ正義論では、「情報基底」とよべる定点を選ばなければなりません。つまり社会としての成否 [社会のよしあし]、あるいは正義にかなうか否かを判断するときに、どのような特徴を判ずるかということです。ここでは人が健やかで恵まれ幸せであるか否かを、どうやって評価するのかが、特に重要だということです。社会評価と正義をめぐり、例として3つの著名な理論について考えてみましょう。

まず第一には、ジェレミー・ベンサムらが標榜してきた功利主義で、人が恵まれているかどうかを考量する最善の方法として、人間の幸福あるいは快楽(または個人の"満足度"などの解釈)に着目するやり方です。

第二のアプローチは、経済学の実践的演習でよく見られるもので(厚生経済学の理論でも)、個人の収入と富で評価するものです。これは満足度にもとづく功利主義と同じく富に即したアプローチで、かたや総所得、かたや所得分配・分布といったデータに焦点を当てています。

第三は、偉大なるわれらが政治哲学者ジョン・ロールズが示した理論で、自由を優先項目とする理論です。が、個々の人間が有する「プライマリー・グッズ(基本財)」をもとに分配均衡を判ずるという、ロールズの正義論を超えたものでもあります。プライマリー・グッズというのは、人それぞれが持つ目的達成のための一般的な資源です。「権利、自由、機会、収入・富、自己尊重など社会的な基盤」をロールズは基本財として敷衍し、その必要性を論じています。

倫理と正義に立脚したこれらいずれの主な理論も、障害者への公平性に関して肝心な注意をはらえきれてないことが、見てとれます。まず第二の富に着目するアプローチから始めますと。経済学者がもっぱら所得分配に焦点を当てるアプローチで、メディアや社会的な議論でもよく取りざたされますが。このアプローチの基本的な問題を、2300年前にアリストテレスが著書「ニコマコス倫理学(Nicomachean Ethics)」で、明言しています。彼はこう述べています。「富は、明らかにわれわれが求めているものではない。それは(当のものでなく)他のもののために役立つものに他ならない」

富や所得は、それだけで価値のあるものではありません。たとえ重度の障害を持つ人の収入や富が元気で健常者より高かったとしても、その人[の生活の質]は後者より優っているとは判断しかねるでしょう。生きたいと想い描く生を人が生きるためのケイパビリティを、われわれは調べなければいけないのです。それには、人それぞれの特徴(障害があれば、それを含む)や、収入や他資源にも留意する必要があります。というのは、それらがその人の実際のケイパビリティに影響をおよぼすからです。富と収入分配に拠る正義論は、手段を目的ととり違えているといえます。アリストテレスが綴ったように、収入と富は「何か別のため」の手段・方途に他なりません。

障害において非常に重要なのは、「収入のハンディキャップ」と「コンバージョンのハンディキャップ」と呼ばれる、2つのタイプのハンディを区別することです。障害者が仕事を得て、それを保持していくのは困難ですし、ひいてはその就労の対価も低いかもしれません。この収入面のハンディキャップは、富に注目する理論にも影響しています。収入と富の面からすると、障害者はかなり不利なのですから。しかし、これは問題のほんの一部にしかすぎません。身体障害のある人が健常者と同じようなことをするには、さらなる収入が必要となります。事故や病気によって身体に障害を負った人が、苦ともせずに動いたり、あるいは動けるようになるだけでも、さまざまな支援または補助器具、あるいは双方が必要となります。障害者がお金を望ましい暮らし向きに換えるうえで被る負担を、コンバージョン(変換)のハンディといいます。収入を得るハンディだけに注目しても十分でないのは、このコンバージョンのハンディも障害者はよぎなくされるからです。

この問題は所得にもとづいた貧困観の限界を知るうえで、要となります。貧困は、人が持ち合わせている基本的なケイパビリティの不足と見ることができます。それは確かに収入の低さとも結びついていますが、それだけではありません。所得レベルが同じであるならば、障害のある人ははるかに限られた事しかできないかもしれませんし、またその人自らが価値があると考える人生をおくるためのケイパビリティも、不足しているかもしれません。障害がために収入が得難くなるのに加えて、収入を望ましい人生を生きるという自由に変換していくのも難しいということです。

<収入>    -------------を変える--------------->  <人生を謳歌する自由>

近年ケンブリッジ大学に異彩を放つ博士論文として受理された、コンバージョンのハンディキャップに英国の貧困率の影響を重ねみたWiebke Kuklysの調査結果をとり上げながら、見ていきましょう。Kuklysは全人口所得の平均値の60%に満たない割合を貧困の基準値とし、17.9 %の人たちが貧困線を下回る収入しか得ていない家族と生活しているという事実を見出しています。障害者のいる家族に目を移してみますと、貧困線以下にある人々の割合は23.1です。この約5 %のギャップは、障害による所得面でのハンディと障害者介護に、かなり影響されたためだと考えられます。さらにコンバージョンのハンディを考慮し、障害を改善するための多めの収入の必要性も含めて算出すると、障害者のいる貧困家族の割合は47.4 %にはね上がります。人口全体の貧困線以下の人口割合(17.9 %)に比べて、20 %近くのギャップとなります。別の方法で比較してみますと、この20 %の障害者をメンバーとする貧困家族のうち、約¼ が 収入ハンディキャップと、¾ がコンバージョンのハンディキャップに帰するものなのです。

英国での障害発生率は多くの途上国と比べると相対的に少なく、イギリス人全体としてのコンバージョンのハンディキャップの影響は、それほど大きくないのです。このハンディにより、英国での貧困の平均発生率は17.9 %から19.8 %にあがると、Wiebke Kuklysは立証しています。むろん、この伸びでも無視できるものではありませんが。この差異は、障害の発生率が高い国では即ちおおむね途上国では、はるかに大きくなる傾向があります。そして、全体の貧困率はわずか2%上昇する英国においてでさえも、障害者家族の不平等な忍苦は、ケイパビリティを考慮した貧困発生率では全人口の240 %に膨れあがります。所得に基づく貧困対策で、コンバージョンのハンディを無視すれば、障害者が一人以上いる家族の貧困レベルを大幅にゆがめて、矮小化してしまうのです。

さらに、良い暮らしをするかどうかは、ある程度、個人の所得からではなく、教育や公共施設など社会的な取り決め[や受け入れ態勢]によるものです。障害児の多くは、ろう者であろうと車いす障害者であろうと、多くの途上国では障害者用設備がないために、事実上、初等教育への受け入れをはばまれています。世界で学校に通っていない一億人以上の子供のうち、4000万人ほどが何らかの障害をもっていると推定されています。ほとんどの学校、特に開発途上国では、身体障害のある子ども用のアクセスを考えずに建設されており、教員もおおむね学習障害を含む様々な障害を持つ子供たちに特殊教育をできるようには養成されていません。ゆえに、コンバージョンのハンディキャップというのは、所得を良い暮らし向きに変えるだけでなく、社会施設を利用可能な機会として変えることにもおよんでいるのです。

注意すべきもう一つのつながりでいうと、身体的または精神的ハンディキャップへの社会的受け入れ態勢が整ってないがために、障害者たちが厳しい試練を受けています。これは、障害者にコンバージョンのハンディを負わす、目に見える具体的な要因ですが。これらの逆境が、障害者がしばしば受ける虐遇に上乗せされているのです。障害者は往々にして身体的および性的虐待のために、HIVおよびその他の感染症にかかるリスクが高いという、かなりの証拠が集まっています。これはいみじくも、コンバージョン・ハンディキャップです。金を得るだけのハンディをみる正義論では、正義の真髄である公平性を担保することは、ほぼ不可能なのです。

ここからロールズの正義論に転じたいと思います。基本財に目を向けるロールズ論では、人が恵まれた暮らしをしているかどうかを、人それぞれ各自の目的達成のための機会があるかを見ていきます。個人ごとに異なる「良き/善きものの概念」の追求を、ロールズは目的と見なしました。このアプローチでは、異なる人たちが持つ2つのタイプのバリエーションに注目する必要があります。第一には、人それぞれが持つ目的は、めいめいの「良き/善きものの概念」にも関連しており、人により異なります。これに、ロールズは特に注目しているわけです。彼は基本財というものはおおむね、千差万別な人のどんな目的にも応じるだけの、多様性を備えていると見なしています。また、特に高価なものを有することは、他のより控えめなものを要する人たちよりも、より多く収入を保有する権限を与えないと論じています。

第二のバリエーションで私が主に関心を持っているのは、この点で、つまり障害者は他の人と同程度のケイパビリティを達成するうえで、資源と基本財がより多く必要となるかもしれないということです。たとえ、他の人たちと似たような「良きもの・良き人生」を思い描いているとしてもです。身体あるいは精神障害を持つ人々が、健常者がたやすくできること(歩いたり、話したり、見たり等)をしようとすると、負担がさらに多くかかることになります。また、より多く時間や労力をついやしたとしても、健常者と伍する行動あるい遂行レベルに達しないかもしれません。収入やその他の資源を望ましい人生に変換する自由度という文脈で、私が前述したことです。似たような批判は、基本財に注目するロールズ論の限界にも当てはめることができるでしょう。ロールズがリスト化した基本財は、収入や富などはるかに超えるものですが、コンバージョンのハンディキャップはそのリストにまるまる該当するのです。これは、基本財の保有を個々の暮らしぶりの高低を示す指標とし、分配の正義を評価する際の公平性に反するのです。

現に、所得から基本財へと調査情報の焦点を広げるだけでは、資源とケイパビリティの相関性における、いかなるバリエーションに対処するにも十分ではないのです。身体あるいは精神に障害のある人は、「権利、自由と機会、所得と富、自尊心の社会的な基盤」など同程度の基本財があったとしても、まだはるかに好ましくない境涯にいるかもしれないのです。基本的な問題は、所得と同じく、基本財が個別の特性とは無関係に定義されているために生じるものです。人の「外側」に関する資産や資源である基本財は、人が保有する財や資源で何ができるのかを捉えはしません。もしその隣のたまたま健常者よりも、障害者のほうが多くの基本財を持ちあわせているなら、したがって有利であると見なされるならば、その人は比較された人よりもさらに制限された苦しい人生を(まさに障害のために)歩むことになるのです。

では功利主義はどうでしょうか?この正義へのアプローチでの功利主義は人の快楽や欲望の達成に主眼をおくので、所得や基本財のように、外的な物にのみ注目していると責めることはできません。それは収入や基本財により優位性を決める手法においては、人間の生活のかやの外に置かれているわけではありません。

功利主義の問題は別のところにあるのです。このアプローチは精神的な特徴を前景化するので、その特質をおびていれば、異なる人たちであっても恵まれていると見なすことです。これは、快楽や欲望は状況に応じて変質し、特に人は逆境に適応し慣れるという事実を見落としています。身体障害をもった人のことを、考えてみてください。独自のイニシアティブをあみ出しささやかな情けから喜びを感じることで、幸せな生活をおくっている人がいるとします。功利つまり幸福度や快楽の尺度では、この障害者は本人の心構えや努力のおかげで、特に恵まれない人には見えないでしょう。しかし、その人がいくら進取の気性に富み明るい心持ちの人であっても、障害というハンディキャップを抱え、ケイパビリティがおおむね低いことは、消え去ることができないのです。例えば、肢体の不自由な人が、その失能力をいくら明るく受けとり、そのハンディをクリエイティブに変えようともがいても、障害は残ったままです。いくら精神的喜びや幸福のレベルが高くても、社会的支援を求める障害者の主張は、重要な失能力がある限り無くならないのです。

基本的なレッスンは、はっきりしているようです。分配における公平性・正義を評価するなら、それぞれの人が目的達成に必要な実質的な機会を持ちあわせているかどうか、見る必要があるということです。それは所得や、基本財や、快楽や欲望 [や嗜好] だけを見るだけでは不十分ということです。人のケイパビリティでは、直接的あるいは間接的に、各自それぞれの不利な立場や苦境を明らかにする必要があります。だからこそ古い正義論を超えて、分配の正義と公平さを評価軸とするならば、ケイパビリティをみる必要があるのです。

これまで特別の計らいで、ケイパビリティ・アプローチとそれがおよぼす経済や社会開発まで広範な影響について、私はここで6回講演してきました。(それは世銀総裁ウォルフェンソンの招待による講演としての形式をとり、その後「自由と経済開発」という本として刊行されました)。ですので、ケイパビリティ・アプローチの戦略やその結果については、差しひかえさせていただきます。が主題としましては、われわれが本質的な自由に関心を持つなら、それにひき合うケイパビリティも含む、人々が実際に自由を有しているかどうかに、目を向けなければならないということです。障害に対する社会的関心は、所得、基本財、快楽など人には比較的よそよそしい視点を選ぶことで、埋もれたり薄れさせたりすることはできません。

世界における障害の全般的な問題は、実に大きなものです。世界銀行に差し出されたデータによりますと、6億人以上の人々、つまり世界全人口の10人に1人が、なんらかの深刻な障害をもって暮らしています。開発途上国では4億人以上の障害者が、暮らしています。しかも、そのような国々では、障害者は収入の面で最貧層であることが多く、彼らの収入の必要性は健常者よりももっと差し迫っています。というのも、ハンディキャップを軽減し、まともな生活をやりくりせんがための負担や支援が必要になるからです。生計をたてる能力の障害(収入のハンディキャップ)は、コンバージョンのハンディキャップ(つまり収入と財源を好ましい生活に切り替えるむずかしさ)により、さらに増幅されるからです。

障害の道徳的、政治的要請を理解するのが重要なのは、人類が広く害うためだけではありません。障害ゆえに副次的に発生する痛ましい結果は、社会的支援や想像力に富んだ後おしで、ことのほか克服されうるからです。障害に取りくむ政策は、ハンディキャップの影響を改善したり、障害発症をふせぐ手だてなど広い領域におよびます。おおむね障害は予防可能であることを理解するのは特に重要で、障害の負担を軽減するだけでなく、発症率そのものを減らすために多くのことができうるからです。

現に、障害をかかえた6億人のうち、ある程度の割合の人たちだけが、妊娠時あるいは出産時に不運にも障害者になってしまいました。例えば、母親の栄養不良や発育期の栄養失調は、小児の病気や健康障害をひき起こしやすくなります。感染症にかかったり、安全で衛生的な水が不足しているがために、失明してしまうこともあります。ポリオや麻疹またはエイズの影響、ならびに交通事故や仕事場でのケガによって、他の障害を負うかもしれません。さらなる問題は世界の紛争地域に散らばっている地雷のために、女性や男性、特に子供たちが死に至っていることです。障害に対する社会的援護は予防だけでなく、管理や緩和も含まれなくてはなりません。

賢明な人道的後ろだてによって達成できることを考えれば、見てみないふりをする無慈悲な社会が障害者の重荷を分けもとうとしないことは、驚くべきことです。この座視する構えは、概念的な混乱に重要な一因があります。既存の正義論が、障害のハンディキャップを満足のいくほど理解するには不十分だとしても。伝統的なアプローチとして定常化した考え方は哲学における論議にも影響をおよぼすだけでなく、このきわめて重要なテーマにしても限りのある程度にしか公的論争も行えません。例えば、所得配分だけの公平性に注目するのであれば、障害の窮状を理解し、障害による道徳的・政治的影響の厄介さを把握できにくくします。収入をもとにした貧困観を反復してもちいれば(1日の収入が1ドル未満で暮らしている人たちの数など)、所得のハンディに加えコンバージョンのハンディキャップを合わせた社会的貧困の厳しさから、目をそらしてうことにもなります。同じく、最大多数の最大幸福などのレトリックも、障害者の本当の障りから、逆境への精神的対応(本質的でないもの)へと注意をそらしてしまいます。

ジョン・メイナード・ケインズは、こういっています「知的な影響から免れていると信じる実践的な人はたいてい、もはや現存しない廃業したエコノミストの奴隷である」経済学、特にすたれた経済学は、世界の病理に対する責任の一端を負わなければならないのですが。すたれているのは経済学ばかりでもありません。哲学も抽象的な論文での小難しい議論から、日常生活の正邪におよぶ考察まで、政策立案、制度、実践にいたるアイディアに非常に強力な影響をおよぼします。関連理論のそれぞれが責任を負っていますが、目的をもった独創的なアイディアでさえ(前世紀の政治哲学における最たる進歩であるロールズの正義論のように)、哲学的論証の後半戦になってから、足かせになってしまうことがあります。

やや異なる文脈ですが、われわれの自発的かつ誠実な懸念を昇華させる方法に関与することで、アルフレッド・テニスンが警告を発しています。そしてわれわれがなぜ絶え間なく闘わなければならないかを、彼は述べています。

善について、よくよく考えよ

それをはっきりと定義せよ

真実を追求せんとする神々しく美しき哲学を、恐れんがために

それはその辺際を超えて

道徳的に非難されるべき、すげ替えた目的を達せんがために、哲学を差しだしたる

地獄の沙汰までも

コンセプトを混同して障害者のニーズをないがしろにすることに、私たちは大いに抵抗しなければなりません。よって、ここに彼らのニーズを明らかにすること、そしてそれにコミットメントする必要があるのです。

溝畑さちえ訳

Dublin Core
Author: 
Amartya SEN
Sachie MIZOHATA (introduction and translation)
Subject: 
アマルティア・セン 「障害と正義」世界銀行における基調講演 (和訳掲載)

Reply

  • Web page addresses and e-mail addresses turn into links automatically.
  • Allowed HTML tags: <a> <em> <strong> <cite> <code> <ul> <ol> <li> <dl> <dt> <dd>
  • Lines and paragraphs break automatically.

More information about formatting options

CAPTCHA
This question is for testing whether you are a human visitor and to prevent automated spam submissions.
Image CAPTCHA
Enter the characters shown in the image.